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18.旧幾春別炭鉱選炭場と炭鉱住宅:かつて人々が働いた場所
幾春別炭鉱は、明治19(1886)年に開鉱、昭和32(1957)年に廃鉱となり、その間、累計約650万トンの石炭が採掘されました。地下の坑内で採掘された石炭は地上の選炭場と呼ばれる施設へ運ばれ、ここで石炭と不要な土砂(ズリ)に選り分けられていました。選炭場は現在の三笠市立博物館付近にあり、その周囲には多くの炭鉱住宅が建ち並んでいました。
19.旧奔別炭鉱:地域を支えた巨大炭鉱 ※私有地であるため、敷地内への立ち入りは禁止されています。
旧奔別炭鉱は明治33(1900)年に奈良炭鉱として開鉱、昭和3(1928)年に住友坂炭鉱に売却された後、昭和5(1930)年に住友炭鉱の経営となりました。昭和46(1971)年まで操業され、累計2650万トンの石炭が採掘されました。
旧住友炭鉱立坑櫓は、①深部採炭の開発、②奔別鉱と隣接した弥生鉱との統合及び集約、③運搬・採炭等の集約など合理化を目指し、昭和34(1959)年に完成、翌35(1960)年に操業しました。櫓の高さは約51m、深さは約735m、内径は約6mあり、当時は東洋一の立坑と呼ばれていました。
旧住友炭鉱立坑櫓は、①深部採炭の開発、②奔別鉱と隣接した弥生鉱との統合及び集約、③運搬・採炭等の集約など合理化を目指し、昭和34(1959)年に完成、翌35(1960)年に操業しました。櫓の高さは約51m、深さは約735m、内径は約6mあり、当時は東洋一の立坑と呼ばれていました。
20.アカダモの木:幾春別の歴史を見守り続ける
明治20(1887)年頃にこの地に移住した人々は、このアカダモ(ハルニレ)の大木を目指して幾春別までやってきたといわれています。三笠へは、炭鉱で職を求めて全国各地から移住があり、ここには、熊本出身の労働者が団体で移住したため、熊本長屋と呼ばれる長屋が建てられていました。
この木は神木とされ、白蛇が住むといわれています。落雷で傷ついた際も、年々その跡が消えていったと伝えられています。
この木は神木とされ、白蛇が住むといわれています。落雷で傷ついた際も、年々その跡が消えていったと伝えられています。
アカダモの木
21.幾春別橋:生活を支えたコンクリ橋
大正15(1926)年に架設され、今も地域の人々が行き交う、通称「コンクリ橋」と呼ばれるコンクリート橋で、「川向橋」とも呼ばれています。
当時としては洋風のランタン(街灯)が備え付けられた、近代的でおしゃれな橋でした。炭鉱最盛期の幾春別川向町地区には幾春別炭鉱の炭鉱住宅が立ち並び、学生や労働者など、多くの人々がこの橋を渡って幾春別市街地へと向かいました。
当時としては洋風のランタン(街灯)が備え付けられた、近代的でおしゃれな橋でした。炭鉱最盛期の幾春別川向町地区には幾春別炭鉱の炭鉱住宅が立ち並び、学生や労働者など、多くの人々がこの橋を渡って幾春別市街地へと向かいました。
昭和初期の幾春別橋
22.幾春別市街地:二大炭鉱で栄えた炭鉱まち
かつて幾春別炭鉱と奔別炭鉱という二大炭鉱を背景に栄えた幾春別市街地は、幾春別神社通りを中心に百貨店や飲食店などが軒を並べ、戦後は劇場が2つ建てられたほど、三笠で一番の繁華街でした。昭和35(1960)年には、幾春別と奔別地区だけで約15000人もの人々が暮らしていました。現在も大正時代の建物があるなど、当時の面影を偲ぶことができます。
23.幾春別神社:仕事の無事を願う
明治期に炭鉱開発の進展と集落の形成を背景にできた神社です。当初は別の場所である幾春別錦町にありましたが、明治31(1898)年に現在の場所に落ち着きました。その時の奉納者に北海道炭砿鉄道会社(北炭)の社長も加わっていたことから、地域住民に加えて炭鉱事業の無事を願う神社であり、炭鉱との関わりも深かったことがわかります。毎年5月には炭山祭りが行われています。幾春別神社から望む炭山祭り(昭和37年:小島和也氏撮影)
24.魚染めの滝:一夜でできた滝!?
明治21(1888)年10月にできた人工の滝です。この滝は、石炭を運ぶ鉄道や住宅地を造るため、現在の幾春別市街地を蛇行していた幾春別川の流路を切り替えた際にできたもので、工事中の豪雨により、図らずも一夜にしてできた滝です。
この滝ができた頃、人々は「幾春別滝」と呼んでいましたが、滝つぼに魚の群れが見えたことから、その後に「魚染めの滝」と呼ばれるようになりました。滝の周辺は、約4000万年前の海の底に泥がつもった地層(幌内層)からできています。
この滝ができた頃、人々は「幾春別滝」と呼んでいましたが、滝つぼに魚の群れが見えたことから、その後に「魚染めの滝」と呼ばれるようになりました。滝の周辺は、約4000万年前の海の底に泥がつもった地層(幌内層)からできています。
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25.友子の墓:親分と子分の絆の証 ※現在も使用している墓地なので、迷惑にならないよう、ご配慮ください。
炭鉱には「友子制度」という独特の風習がありました。これは親分と子分との契りを交わし、親分が子分の身の回り(冠婚葬祭など)の面倒を見る制度です。福利厚生の発達していなかった明治から昭和初期に発達しました。また、友子制度では、親分から子分への採掘技術が伝承され、大変重要な役割を担っていました。
親分が亡くなると、子分たちが親分から受けた恩を返すためその親分の墓を建てたものが「友子の墓」と呼ばれるものです。
親分が亡くなると、子分たちが親分から受けた恩を返すためその親分の墓を建てたものが「友子の墓」と呼ばれるものです。
26.旧炭鉱住宅 ※現在も使用している住宅なので、迷惑にならないよう、ご配慮ください。
炭鉱住宅は、通称「ハーモニカ長屋」や「タンジュウ」などと呼ばれていました。三笠の炭鉱は山側にあったため、そこで働く人々は平らな土地の少ない場所にたくさんの家を建てる必要がありました。そのため、長屋状(通常、5軒から6軒長屋)になった家が多く建てられたと考えられます。トイレは共同で使い、風呂はついていなかったので、町の銭湯を利用していました。
27.旧幌内炭鉱立坑櫓:巨大なエレベーター ※私有地であるため、敷地内への立入りは禁止されています。
旧幌内炭鉱立坑櫓は、昭和41(1966)年に建設されました。この立坑櫓は高さ約40m、地下約1077mの巨大エレベーターです。地下で石炭を掘るために、人や資材を運搬したり新鮮な空気を地下に送ったり(入気)するのに使用されました。一度に50人運搬できました。